Essay 2008

<もう少し・・>

 

先月ハワイ(オアフ島)に行って来た。今回は全くの仕事抜きでそれこそあっちで踊る事も無かったし、毎日フラフラ、ウロウロしていた。
私は今までハワイで生活をしたいとは思っていなかった。若い頃住んでいた経験もあるし、割と住みにくい場所で物価も高いし、東京で仕事をしてタマにバカンスで行くのが1番いいかな・・と考えていたから。しかし、今回は何故か「住んでもいいかな、いや、やっぱり住もうかな」と考えた。どうしてだろう・・、自分の生活ももう決まってしまったし、体力や気力があとどのくらい続くか考えるようになり、なんだかのんびりゆったり第三の人生を考え始めたせいかな。そう、私は今現在を自分的に「第三の人生」と考えている。「第一の人生」はフラに出会う前の生まれてから25歳くらいまで。「第二の人生」はひたすら突っ走った「フラ人生」の時期。そして今の「第三の人生」は2年前から始まっている。世間で言うロハスな生活をするのならやっぱりハワイはいい所。ずっといると多少ボンヤリはするけれど、それも又良し!という事で過せる。1番の魅力は「自由」というところ、どんなスタイルでもかまわない、誰かが見てるからこうしようとか、どこそこに行くからああだ、こうだとかがない。全くの「素」の自分と向き合える。そしてあの風・・・、ハワイの風は特別だ。貿易風にありがちの湿った風、海の匂いがする。山から下りてくる強い風は雨の匂いがする。思い出しただけでも又ハワイに行きたくなる。私に可愛いワンコがいる限り、変な亭主がいる限り、今すぐの「ハワイアンな生活」はとてもムリ。「いつかはきっと」を夢見ながらもう少し頑張ろうか・・。ちょっと生き抜きしながらの私なりの「第三の人生」を・・・。

<命の石>

 

ワイキキビーチの中心、ポリスオフィスのとなり(もっと正確に書くと公衆トイレの前!)に策に囲まれた大きな石が4つある。ほとんどの観光客が見向きもしない場所と石だ。この石はハワイ語で「Na pohaku ola kapaemahu a kapuni」(命の石)というそうだ。遠い昔、疫病が流行った時に Ka huna(祈祷師)が人々の健康を祈って魂をこの石に吹き込んだという言い伝えがある。詳細を伝えたパンフを無くしてしまった為、その物語を正確に書けないけれど、とにかく<健康祈願>(日本で言う無病息災か?)の石である事は間違いない。ここ数年病気や怪我の多かった私はさっそく夕暮れの散歩の途中でこの石をお参りした。年に何度も、しかも何十年とハワイに来ながらこんなに大切な石がワイキキにあるとは知らなかった。もっと田舎の方や他島に行くとHe eiaという神殿跡があって それぞれ色々な言い伝えがあるのは知っていたけどまさかこのワイキキにね・・・。もっともこの石は最近きちんと整備されたのだろうけれど・・・。そばに寄ると結構大きい。石というより岩の様だ。ワイキキビーチの喧騒の中でこの石は大きいくせに妙にひっそりと置かれている。しばらく見ていたけれど、やはり足を止めてこの石に注意を払う人は誰もいなかった。私は日本式に両手を合わせ「ナム~」とばかりにこれからの自分の健康を祈った。日本の神社仏閣ならご利益のある石や置物を撫でたり出来るけどこの石の周りには頑丈な鉄の策がしてあるので石を触る事はできない。西のビーチに落ちていく真っ赤な夕日と騒がしい人々の群れ、あちこちから聞こえてくるハワイアン音楽、この4つの大きな石達は静かにそこに鎮座し、観光客を見つめている。

<されどフラ・・>

 

もう随分昔の私がフラを習い始めた時の事を最近良く思い出す。今が良いとか悪いとかではなく、「すっかり変わったフラ事情」にどう対応するべきか戸惑う時が確かにある。
1番身近に思うのはいわゆる「フラ商売」のなんと多い事!フラスタジオも、フラの先生もフラショップも爆発的に増えた。最近では名前も聞いたことのない先生がたくさんいる。30年近く前は日本でフラをやっている人はすごく少なくてお互いに顔も名前も知っていたし、それぞれが相手を認め合い、尊重していた。年上の先輩先生にはきちんと礼儀をつくし、ダンサー達は仲が良くステージも楽しかった。今の様に専門的なフラ雑誌も無く、インターネットも無い時代に私達はハワイに行ってはフラソングのテープを買い、歌詞を探して図書館に通った。お互いに持っていない歌詞や音を交換しあったりもした。だから今でも私はフラソングの音源や歌詞はすごく大事にしている。そして当時習った歌や踊りは決して忘れる事がない。今の様に気軽にハワイに行ける状況ではなかったから真剣に注意深く、先生の言葉やモーションを脳裏に焼きつけ踊ったものだ。その頃の曲を踊る時は今でもその時の様子がはっきり浮かんでくる。「あの時にこう言われた」とか、レッスンの前後の会話までも覚えている。人間って恐ろしいほど神経を集中して全身で何かをした時の事は忘れないんだなと思う。とにかく今は便利すぎる。多忙な「先生家業」をしているとその便利さは有り難いのだけれど、やはり「これでいいのかな・・」とも考えたりもする。
私が初めて生徒の発表会を行った時から何年かは会の前に必ずハワイに仕入れに行って、簡単な衣装や髪飾り、レイは生徒達と一緒に作ったものだ。それがだんだん生徒数も増えて、あちこちにフラショップができて日本でも全て手に入るようになり自然と「便利さ」に頼るようになってしまった。しかも今はハワイより優れている品が豊富に店先に並んでいる。
フラを習っている人達にも変化がある。これだけたくさんのフラ教室が有り、自由に先生も選べるし、ハワイからも先生は来るし、ハワイにも頻繁に行って「ちょっとフラ留学」も可能な世の中だからなにもかも「Easy」に考えている。私はそれはそれで一向に構わないし、個人の問題だからとやかく言うつもりはない。だけど、ほんの少しだけもう少し「真面目」に考えてもいいんじゃないのかな?フラは数回クラスに参加しただけでは踊れないし、何年習っても「これで良し!」なんていう踊りはできないと思う。自分の時間とお金を使ってフラを習うのなら大切なそれをムダにしてはいけない。自分は何の為に、誰の為に踊るのか?何故フラを踊りたいのか?何故続けていきたいのか?何故フラが好きなのか?たまにはそんな事を考えてみるのもいいかもしれない。そして私も考えてみる、何故踊り続けるのか?何故教え続けるのか?本当の答えは私自身まだ見つからない。手に届かないからこそ今日も踊り、教えているのかな・・・。

Essay2008
Essay2008

<たかがフラ・・?>

 

先日ある生徒からこんな質問を受けた。
「先生、フラってどこかのお教室に通っていても違う先生に習っていいんですか?」どうも最近ウチが担当しているカルチャースクールやスポーツクラブに他所のスタジオに通っている生徒がチラホラと在籍しているかららしい。
もちろんそういう事は習っている先生にも私にも失礼だから「ダメ!」って言いたいところだけれど、どうなんだろう。先生が違えばフラの形も違ってくるので本人が大変だろうと思うし、もし自分が習っている現在の先生に不満があるのならひとつの解決策としてそこを辞めて新しい先生に付くのも自由ではあるけれど・・、二股、三股はね、困っちゃうな。
最近特に多いのが「タヒチアンクラス」カルチャーでもスタジオのクラスでもいかにも他でフラを習っていますというバリバリのフラダンサーっぽい人が体験だ、見学だと毎回忙しい。カルチャーは気軽に入れるし、私との接点もそれほどないし、受付も施設側がするから入りやすいのでしょうね。だけどね、その人達は自分の先生に相談したのでしょうか?
綺麗ごとかもしれないけど他所で「タヒチアンダンス」を習おうと思う前に、まず自分の先生に「タヒチアンダンスを教えて下さい」と頼んでみたのかな?
たとえばフラのワークショップ、私の生徒でもワークに行っている、又は行った事がある生徒は沢山いると思う。今まで「行ってもいいですか?」と聞いてきたのは二人だけ。私はその時、クムは誰かを聞き一人にはOKを出し、もう一人には「止めた方がいい」と伝えた。日本にお金目当てにワークに来るハワイのクムは数しれず。名前を聞けばその人の背景が分かるから止めたのだけど、実際は行ったのかもしれないな。
新しいものを習いたい、知らない曲を習いたい・・、フラに熱中すればするほどそういう気持ちが起きるのは当然。だけどね、先生っていうのはいつも考えているよ、このクラスは次回これを、ここは今度あれを教えようって。だからどうしても習いたい曲があるのなら(習いたいもの)自分の先生に聞いてみるといい「○○はいつごろ教えて頂けますか?」って。そして万が一先生が「私はタヒチ(又は古典や楽器類)を教えない」と言ったら、是非ウチのカルチャースクールへどうぞ!なんちゃって^_^;
けれどウチの生徒から無理難題を言われたら・・困っちゃうな(笑)先生も勉強、勉強です。話は変わって・・

お稽古する時はみんなパウスカートをはいたり、パレオを巻いたり、そのお稽古場によっては簡単なムームーを着たりしてるでしょ。南国の気分を味わう為にお花を髪に飾ったりレイをしたりする人もいるよね。雰囲気が華やぐし、綺麗だからすごくステキな事だと思う。でも最近はカルチャースクールやスポーツクラブで習ってる人達の中にトレーニングウエアの人が多いのは何故だろう?特に若い人はあまり気にしないのか、普通のジャージ姿!これって困っちゃうなぁ。フラもタヒチアンも「運動」ではなく「舞踊」なんだけどな。最近の考え方は違うのかな?最もどのカルチャーでも「動きやすい服装でご参加下さい」ってリーフレットには書いてあるけれど・・・。それにしても「踊る」という本質が分かっていない・・と思ってしまう。「踊る本質」が分かっていないジャージ姿の人に私は何を教えればいいのだろう?簡単なストレッチ、基礎のステップ、そして曲の振り付け・・、結局ジャージ姿では私の興味も熱意も熱くならないから「運動」で終わってしまう。本人達はそれで満足なのだろうか?それでもクラスは満員御礼状態でカルチャー側はご満悦だし、私もそれなりに割り切ればいいのかもしれないけど。
それでも私は「綺麗」に「踊る」人達を見たい。色とりどりのスカートが揺れるのが見たい。だってフラもタヒチアンダンスも優雅で美しい踊りだから。私に「やる気(教える気)」を起こさせるのはみんなの熱意と情熱なんだけどな・・。せっかくブームになってもこのままでは将来が見えない。何をやるのも「美意識」が大切だと思うのはただの自分のこだわりなのかな?
 

 

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