Essay 2006

2006年のプライベートダイアリーより抜粋

omoide
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1月

今年は2年に1度のスクール発表会の年、日にちは6月4日の日曜日、有楽町イイノホールと決定している。しかし昨年秋以来、ちょうどスクールハワイ旅行から帰国したあたりから胃腸の具合が良くない。検査の結果、腸には憩室という潰瘍と胃と十二指腸にも潰瘍ができていた。この仕事を続ける上で胃潰瘍はいつもの事でたいして気にはならないけれど、シクシク痛む憩室はやっかいだ。治療するには絶食と抗生物質しかない。食べなければ体が持たないし、かといって食欲もあまりない。発表会のレッスンをしながら私はいつもお腹が痛くて不愉快だった。

 

2月

衣装の採寸に入ると、発表会が具体的になるのか急に来なくなる生徒がいる。発表会の前後に辞めていく生徒が出るのは毎回の事で慣れているけれどやはり不思議・・。ウチのスクールでは発表会を含む全てのイベントは強制ではなく任意だ。出たくない人は出なくてもかまわない。それでも会が近づくと数人は辞めてしまう。

久しぶりに会った家族に「痩せた!」と指摘された。発表会が近くて忙しいからね・・・。憩室は治ったけれど胃痛は時々続いている。200人からの選曲、衣装、小物・・、気が遠くなる作業だ。

 

3月

左足アキレス腱切断、手術から1年。見た目にはもう分からないけれど、まだ足がつっぱる。

寒い日は痛みもまだあるし・・。

ところで・・・

10年近く一生懸命尽くしてくれたイントラのSちゃんが突然消えた!我がスクール七不思議のベスト3には絶対入る事件だ。(スクール七不思議については他の機会にでも・・)

人の縁とはなんと儚いものか、そして人の心とはなんと通じ合わないものか・・・、辛すぎる現実。そしていつもイントラの「尻拭い」は私の役目だ。このタイミングで・・ひどい!

 

4月

発表会を目前に多忙はきわめ、日々の疲れが中々取れない。胃痛はたいした事はなく、時々空腹時に痛む程度だ。自分ではそれほど気にならないけれど、今年に入ってすでに4キロ体重が落ちた。ステージの前にダイエットをしなくてすむから今回はラッキー!。

憩室の薬を貰いにかかりつけ医の所へ・・、私の多忙を知りながら医者が胃カメラ検査を強く勧める。「発表会の前にきちんと検査を!」という医者に私は「発表会後にゆっくり」を主張したが通らず、5月の連休前に検査と決まった。私の<痩せ方>が気になるそうだ。

確かに今月末のステージで着る予定の衣装がブカブカ・・になっていた。 だけどそんな事は今はどうでもかまわない。発表会は二ヶ月後にせまっているのだから。

5月
連休に入る直前に胃カメラ検査をした。検査後すぐの結果はやはり胃潰瘍で、しかもかなり悪化しており出血もしているという。とにかく食前、食後に飲む薬を処方され一部は組織検査に回された。仕事面ではいよいよ追い込みの渦中で、毎日レッスンだ、打ち合わせだ、パンフにプログラム作り等々やらねばならない事が山積みだった。大勢の生徒を踊らせて、ショウを構成、演出していくのは並大抵の事ではない。しかも一部クラスの衣装は押せ押せだし、バンドもデモを中々作ってくれない。連日イライラし通しだ。
その日も夜遅く帰宅して、クタクタの中でその留守電を聞いた。かかりつけ医院の院長自らのメッセージだった。「先日の検査結果が出ました。至急ご来院下さい。」しかも「ご主人も一緒にお願いします」なんて付け加えてあるものだから私にはすぐ組織検査の結果がおもわしくないと分かった。とりあえず次の日朝1番レッスン前に病院を訪れ話を聞いた。

案の定<胃癌>だった。初期の進行型癌とスキルス癌の2種類が認められたという。このスキルス癌というのが曲者で1日も早く手術をして取り除かなければ年末にはかなり深刻な状態になると説明された。そう言われても私には来月にせまった発表会を開催しなければならない責任と勤めがある。かかりつけ医が紹介状を書いて、彼の進めてくれた病院に行く手はずを整えてくれた。そこで発表会までの間、さまざまの検査を通院で行い、発表会の次の日に入院、手術と決まった。その日から心身ともに辛い1ヶ月を過ごすことになる。生徒達のモチベーションを下げてはいけないので私のこの病状は誰にも告げる訳にはいかず、ひたすら平常を装うしかなかった。それにしても午前中様々な検査を受け、ほとんど毎日採血され、午後から夜にかけてのレッスンは私の体力も精神力も消耗させた。何よりも私を不安の中に落ち込ませたのは「こうしている間にも癌は日々増殖して大きくなる」という恐怖だった。実際5月の始めの癌の大きさはたったの2週間で3倍にも大きくなっていた。私は死ぬのは怖くは無かったけれど、せめてあと5年は生きていたい・・なんて静かに考えたりもした。その反面、思い通りに踊ってくれない生徒達に苛立ち、「私は癌なの、死ぬかもしれないの、だからちゃんと踊って!」と叫びたかった。

5月の末、発表会の1週間ほど前に、私は一部のイントラ達に自分の病気の詳細を話し、万が一発表会当日まで私の体力が持たなかったら「後はよろしく」という思いを託した。
誰も何も困らないように全ての段取りは終了させたので思い残す事は何も無い、むしろその日から休みたかった。「手術の日までに癌が更に大きくなって手遅れになったら・・」という恐怖だけが付きまとい、私から離れていかない。心身の辛さと恐怖で私はクラスが終了する度に車の中で泣いた。そして又次のお稽古場へ車を走らせるのだった。

 

6

ある意味すがすがしい気分で発表会当日を迎えた。やるべき事は全てやり、万が一手術で最悪の事態が起きても何の憂いもないくらいに私の準備は完全だった。おそらくこれまでで1番と言っても過言ではない発表会であったと思う。

長い一日だった。そしてあっという間の短い一日でもあった。ラストの私のソロは私自身の名前でもある♪kukunaokalaを選んだ。その時はもしかしたらもう二度と踊れないかもしれないという不安もあったので、最後の曲はこの曲しかないと決めていた。実際に踊っている時もこれが最後かもという思いが何度も脳裏をかすめて涙が出そうだった。いや泣いていたかもしれない。

全てのパフォーマンスが終わり、緞帳が降りた時、「ああ、これで明日入院できる。これで楽になれる」と心から安堵した。

しばらく休まなくてはならない事は生徒達には申し訳ないけれど、これで治療に専念できるのが嬉しかった。

 

当時のその様子がBlogに掲載されています。

生徒達には余計な心配をさせない為に「胃潰瘍の手術」とだけブログで挨拶しています。

2006 at Iinohall
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2006 at Iinohall2
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Copy light by Kukunaokala Hula School
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